2011年05月14日

へー。ピアノが黒いのは日本のせいだった。

ピアノと言えば黒が当たり前だと思っていたけど、発明された当初は、黒く塗られていなかった。確かにバイオリンとかギターとか他の木製の楽器は黒くないし、わざわざ黒にする理由がない。
実は、ピアノを黒く塗るきっかけは、日本の漆器だったらしい。

NHKのBSで放送されていた「知られざる在外秘宝」という番組を見た。在外秘宝って何のことだろう?と思ったら、海外に渡った日本の工芸品や美術品のことだった。浮世絵がヨーロッパでジャポニズムブームを巻き起こし、浮世絵コレクションの多くが海外にあることはよく知られているけれど、それより古い時代に西洋でブームになった日本製の漆器コレクションを取り上げていた。

日本製の漆器が西洋に渡るきっかけは、戦国時代に日本にやってきた宣教師たちだ。彼らが持ち帰った漆器は、今でもスペインの教会などに数多く残されている。18世紀になるとヨーロッパの王侯貴族の間でブームになり、オーストリアのマリア・テレジアは、宮殿に「漆の間」を作り、蒔絵などの漆器を買い集めるほどだった。彼女は、ダイヤモンドよりも漆が好きだったと言われている。
そのコレクションは、娘であるマリー・アントワネットに引き継がれ、彼女はベルサイユ宮殿に「黄金の部屋」を作ってそこに漆器を並べていた。
漆器というとお椀や重箱をイメージしてしまうので、渋すぎて西洋の宮殿には似つかわしくない気がしたけど、映像で見ると、蒔絵の繊細な細工や漆黒と金のコントラストは、宮殿の豪華さに負けていなかった。

ヨーロッパの王侯貴族が漆器に惹かれた大きな理由は、漆が持つ高級感のある艶やかな黒だ。日本から漆器が渡る前のヨーロッパには、艶のある黒を出せる塗料はなかったそうだ。艶のあるラグジュアリーな黒は漆でなければ出せないのだ。

考えてみると、「黒」は不思議な色だ。一般的には暗さや憂鬱さを象徴する色だから、美しさや豪華さを演出したい時には選ばない。でも、黒に艶が加わると、ものすごく高級で華美な雰囲気になる。そこに金が加わればその派手さは宝飾品の比ではない。
黒は地味で高級感とは間逆な色だと思っていたヨーロッパの人にとって、高級感あふれる漆黒は衝撃だったのだろう。
だけど、漆の木は東アジアでしか育たず、日本でも高価だ。そこで、西洋では漆のような黒を他のもので再現しようと試行錯誤し、漆ほどではないが、光沢のある黒を出す塗装技法を開発した。その技法はジャパンニングと呼ばれている。
そして、ピアノが光沢のある黒で塗られるようになるのはこの頃から。ピアノの黒は、漆の黒をお手本にしているのだ。光沢のある黒の醸し出す優雅さとピアノがマッチすると思ったのだろう。
ピアノの黒が漆塗りだと思ってみると、なんか和風な楽器に見えなくもない(笑)。

漆塗りの工芸品って、渋くて和風なデザインが多いせいかあまり興味がなかったけど、マリー・アントワネットのコレクションは小物が多くて、かわいらしいものが多かった。機会があったら、蒔絵の小箱でも探してみよう。
posted by らいと at 22:59|

2011年05月11日

へ?自然エネルギーが優しいと思う根拠は何?

菅の浅はかなパフォーマンスのせいで、浜岡原発が停止になって、節電対策は、東日本だけでなく中部以西の地域にとっても切実な問題になってきた。他地域から電力を融通してもらおう、なんて考えはなかったことに・・・。
菅は自然エネルギーへの転換なんて夢物語で支持率アップを狙ってるようだけど、「自然」とついただけで、「優しい」&「クリーン」だと信じてしまう人には、それなりに効果があるのだろう。
でも、自分は自然エネルギーが、人間に優しいとは思わない。
だって、地震も津波も台風も自然のエネルギーでしょ?
東日本大震災で、自然は人間に優しくないということを思い知らされたばかりなのに、自然エネルギーに頼ろうなんておかしいんじゃないか、と思うわけ。

福島原発の事故を受けて、日本に限らず、世界中が反原発な雰囲気になっているようだけど、人間というのはご都合主義な生き物なんだと、つくづく思う。
「今回のような規模の地震や津波をなぜ想定しなかったのか?」と自然エネルギーの脅威を軽く見ていた東電を責めるのに、人間が使うエネルギーを自然界から調達しようとする時には、自然エネルギーは人間に優しくて安全だと言う。こんなご都合主義な話を信じるほうがおかしいと思う。
だいたい、地震の予知もできないのに、自然エネルギーを人間の都合でコントロールできると思うこと自体、自然界を甘く見ていると思う。

汐留地区に高層ビルが建ったせいで、海からの風が遮られてヒートアイランド現象をもたらし、都内の温度が1,2度上昇したと言われている。ベイサイドに高層ビルを建てただけで、風の流れが変わって気温変化をもたらすのだから、海沿いにデカイ風車をたくさんおいてブンブン回したら、気候に影響が出るんじゃないの?
風力発電は、低周波の騒音問題が発生することがわかっているし、人間に優しいとは思えない。
太陽光にしたって、お日様は人間の都合で出てくれないし、日照不足の時はどうすんの?

「危険な原発を認めるのか!」とヒステリックに喚く人がいるけど、人間が使うエネルギーを人間が作ってコントロールする方が、コントロール不可な自然エネルギーに頼るより筋が通っている。人間にとって危険があっても、そんなことは想定内。

自動車に事故はつきものだけど、それを少なくするために様々な方法が取られている。自動車そのものの安全装備や交通ルールだけでなく、運転者も歩行者も交通ルールの遵守が要求される。それでも事故は0にはならないから、自動車保険に入るのが当たり前。
自動車の安全装備の向上や救命医療の発達で、交通事故による死亡者数は減っているようだけど、それでも毎年5000人近くの人が亡くなっている。負傷者数は100万人を超えているけど、自動車を禁止にしろという声は聞かない。

原発事故の影響でガンになる心配をする人も多いみたいだけど、原発事故があろうがなかろうが、もともとガンになる人は多い。だからガン保険だって当たり前の世の中だ。
たばこは健康にマイナスしかないのに、禁止にならないし、喫煙者も多い。対して、放射線はガンの治療に使うこともあるし、健康にマイナスのことばかりではない。
車やタバコの危険性については寛大なのに、放射線の危険性に対してだけ過剰に心配する人の思考がよくわからない。

何より、人間が使うエネルギーは人間にとって100%安全でなければならない、という傲慢な思い込みを捨てるべきじゃないかと思う。地球上には、人間にとっての危険が一杯あるのだから、危険を承知で生きて行くべき。
posted by らいと at 01:25|

2011年05月01日

へん!アンチ石原こそ、自販機とパチンコ屋の自粛に賛成しないと。

菅や枝野を例にあげるまでもなく、左翼かぶれの人間は、妬みの塊だ。他人の意見にイチャモンをつけることで、自分の正当性が認められると思っている。だから、妬んでいる人物の意見に脊髄反射の如く反対する。その結果、普段の主張とかみ合わないダブルスタンダードが当たり前になる。
韓国や中国の新聞に極右政治家と称される石原都知事のアンチは、当然のことながら左翼が多い。そして、やっぱり石原氏の意見に脊髄反射で反対するので、普段の主張との整合性がとれず、ダブルスタンダードになる。

震災以降の節電対策として石原都知事が提案していた自販機とパチンコ店の自粛が本格的に決まりそうで、アンチ石原軍団は、パチンコ産業や自販機メーカーの擁護に必死。だけど、この2つの業界を擁護するのは、普段、声高に「庶民のため」「環境のため」と主張している内容と整合性が取れない。

自販機は、土地持ちの小遣い稼ぎの道具だし、定価販売が多くて庶民の財布にも優しくない。
パチンコ産業は、客を借金まみれにし、客を食い物にすることで成立している商売だ。パチンコ客の子供の置き去り死は後を絶たないし、警察OBの天下り先でもある。
なにかと言えば「格差が広がっている〜」と怒ってるけど、自販機を置いている土地持ちが自販機の儲けで潤うことも格差が広がる元なんじゃないの?
こんにゃくゼリーの誤飲事故をメーカーの責任にするなら、パチンコ絡みの置き去り死もパチンコ屋の責任になるんじゃないの?
「天下り反対!」と言うなら、警察OBの天下り先であるパチンコ産業と官僚の癒着も問題視すべきじゃないの?

アンチ石原軍団の左翼がこの2つの業界を擁護する理由も説得力が乏しい。
まず、自販機はエコベンダーを導入していて、すでに節電努力をしていると言うけれど、問題は一台あたりの節電効果じゃなくて、そもそも数が多すぎることにある。
例えば、今の冷蔵庫が10年前の冷蔵庫より節電効果が大きかったとしても、一家に冷蔵庫が3台あったら電気食うでしょ?それと同じ。一台あたりの節電対策より、台数そのものを減らさないと。
自販機はあると便利だけどないと困るというものでもない。
日本人は、冷たい飲み物が好きな人が多いけど、暑い夏に必要なのは、水分であってキンキンに冷えているかどうかは関係ない。ぬるい飲料でも喉の渇きは潤うのだ。日本人は何でも冷やしすぎ。
それこそ、ここ数年は、エコのためにマイボトルを持ち歩こうなんて風潮もあって、小ぶりの水筒や携帯用のボトル類が豊富だ。節電が必須じゃない時は、マイボトル持参でエコとか言ってたのに、節電が必須になった途端、自販機がないと困ると主張するのはダブルスタンダードそのもの。むしろ、この機会にマイボトル運動を推進するぐらいじゃないとおかしい。

パチンコ屋に関しても、どれだけ節電しようが、パチンコ屋がこの世に存在すること自体が無駄。
パチンコなんてまともな社会人には、なくても困らないどころか、存在する価値もない。駅前の空き地にパチンコ屋ができるとわかったときの落胆と言ったらない。
今や、パチンコのCMだらけのテレビ業界にとっては、パチンコ業界の売り上げは大きく見えるだろうが、パチンコは経済全体に貢献しない。それが証拠に、田舎町に燦然と輝くパチンコ屋は地域経済衰退の象徴だ。パチンコ産業に経済効果があるのなら、田舎はもっと潤ってるはずだ。

何より、娯楽と称して違法に金を巻き上げるパチンコ屋は、庶民の敵だ。異論は認めない。
子供の頃、パチンコの横のプレハブ小屋におっさんが列を作っているのを見て、あの小屋は何だろう?と不思議に思っていた。あれはいわゆる景品交換所と呼ばれるパチンコの景品をお金と交換する場所だと知ったのは大人になってからだ。
日本では、公営ギャンブル以外は認められないから、パチンコ玉とお金を交換することはできない。だから、店内では景品と交換して、店外で景品を金と交換する。お金を払っているのは別の店ですよ、と取り繕うための小ざかしい商売方法だ。

庶民から娯楽を奪うな、と言うのなら、ゲームセンターのようにすればいいだけの話。
ゲームセンターは、景品を換金しなくても商売が成立している。だけどそれをしないのは、パチンコ屋自体が娯楽を提供するつもりがないからだ。射幸心を煽って、ギャンブル性を武器に儲けているのに、こういう時だけ娯楽産業のようなふりをするのも小ざかしい。

だいたい、パチンコが唯一の娯楽になってるような人間は、子供を置き去り死させる親を例に出すまでもなく、クズばかりだ。
労働組合は、左翼組織の代表格だけど、労働組合が守るべきは、まじめに働く労働者であって、働きもせず、子供の世話もせず、借金作ってパチンコ三昧のクズではないはずだ。クズを真人間にしたいなら、尚更パチンコ屋はいらない。

左翼は、「外国ではこうだから、日本も同じようにすべきだ」と主張するのが好きだけど、左翼のお気に入りの国、韓国では、パチンコ禁止になったそうだから、日本も禁止にすべきだと主張しないと。
posted by らいと at 20:34|

2011年04月05日

へん!自粛ムードを客のせいにするなよ。

東日本大震災発生から3週間がたち、新年度も始まったせいか、復興につながらないから、過度の自粛はよくない、というニュースが増えてきた。でも、自粛ムードの影響で取り上げられているのは、たいてい宴会絡みの飲食業と観光業。テレビのニュースが心配しているのは、日本経済全体というより、宴会の開催のようだ。
石原都知事の花見自粛発言に対する反発もあるんだろうけど、ニュースで、宴会の自粛はよくないとしきりに言う背景には、最近のバラエティー番組が、大手飲食店のメニューランキングや食品メーカー等の工場紹介に頼り切っていることと無縁ではないのだろう。バラエティ番組という名の企業の宣伝番組を作るためには、飲食店や食品メーカーの売り上げが落ちるとテレビ局が困るわけだ。

震災直後は、被害の大きい地域に関するニュースが多かったけど、最近は、被災地から離れた地域でも、取引先企業の被災で、必要な部品などが調達できず操業できないというニュースが増えてきた。ユニットバスやシステムキッチンを作っているメーカーの工場が被災して、一般住宅の建築がストップしているとも聞く。計画停電の影響で、思うように生産できない工場も多く、ヨーグルトも品薄だ。製紙工場の被災で、出版業界にも影響が及び始めている。

東北に比べれば被害は小さいけど、東京での揺れも大きかったから、修復が必要な建物も多い。震災以降、毎日、東日本のどこかで地震が起きているし、計画停電の影響で、電車も運行本数を減らしているし、デパートなども営業時間を短縮している。街行く人々は、みな落ち着いてみえるけれど、まだ東日本は通常営業な雰囲気ではない。
津波被害や原発事故の農業、漁業へのこれからの影響を考えたら、飲食店のメニューにも影響が出るだろうに、飲食店だけが通常営業できると思うのもおかしい。

今回の震災被害と原発事故による影響は、日本全体に及んでいる。震災直後は、東北の被災状況だけを心配していた人が多いだろうけど、今はみな自分の仕事や生活への影響を考え始めている。むしろ、震災直後よりも、間接的な影響の及ぶ範囲の大きさを感じている人が多いと思う。

大きな被害がなかった地域でも、取引先に影響が出ているとなれば、自分の会社の売り上げにも影響が及ぶ。そうなれば、当然、自分の給与や会社の業績が心配になってくる。
そんな状況で、「被災してない人は、景気回復のために、飲んで遊んで、どんどんお金を使いましょう!」と言われても、「はい、そうします」とはならない。
宴会を自粛する人が多いのは、被災地への配慮だけが理由ではなく、自粛しないとまずいと思わせる状況だからだ。文字通り、自ら進んで慎んでいる状況なのだ。別に我慢しているわけではない。
それに、地方出身者が集まる東京には、東北出身の人もたくさんいるだろう。自分が被災していなくても、家族や親戚、知人を失くした人もいるだろう。震災から3週間たったとは言っても、49日は過ぎていないのだ。

自粛はよくないと言うなら、ACのCMで「買いだめはやめましょう」とか「必要のないものは買わないようにしよう」みたいなことを言うのもやめるべきだ。
買うのだって、景気回復に貢献するのに、買うのは控えるべきで、外での飲み食いは推奨されるというのもおかしな話。
酒が飲みたくないわけではなく、飲んで浮かれたくないだけなのだから、自粛ムードでも商売のしようはあるはずだ。
商才がなくて、自粛ムードに合わせた商売ができないからって、来ない客のせいにするなよ。
posted by らいと at 21:58|

2011年04月02日

へ?あそぼって言われても、あそばないって言うことも大切。

ACのCMの暗さについては前に書いたけど、自分がACのCMを好きになれないのは、ACのコンセプトに潜んでいる「優しさごっこ」が原因だ。
金子みすずの詩を朗読している「あそぼって言うと、あそぼって言う」のCMは、「自分が言った言葉はこだまのように相手から返ってくるから、悪い言葉は言わないようにしよう」と説教じみた解釈をするのが一般的なようだが、自分はそう思わない。
「こだまでしょうか?いいえ。誰でも」のフレーズを「こだまではなく、誰もがそのように言い返しますよ。」という意味にとるようだが、自分の解釈は違う。

「こだまでしょうか?いいえ。(こだまではありません。)」
ではなんなのか?という答えが「誰でも」になるわけだけど、一般的な解釈の意味につなげるには曖昧な表現だと思う。
「みんなが」とか「誰もが」ならわかりやすいけど、「誰でも」で終わっているから、語呂やイントネーションからすれば、「いいえ、誰でも(ありません。)」の方が違和感なく読める。
どういうことかと言えば、それは空耳だったってこと(笑)。
まじめに言えば、実際の返答ではなく、願望の返答なのだろうと思うのだ。
自分がこう言ったら、相手も同じように言って欲しいという願望。
でも、そうではなかったという寂しさ。この詩には、子供っぽい無邪気さとともに寂しさが漂っている。

子供は同じアニメや本を飽きずに何度でも読んだり見たりする。結末を知っているから安心して見るのだろう。
子供は、大人のように意外な結末や大どんでん返しは求めていない。予定調和を求めている。
そして、子供同士のやりとりをイメージさせるこの詩の求める予定調和は、相手が自分の言う言葉をオウム返しにすることだ。自分の言葉に同調することを求めている。

「あそぼって言うと、あそぼって言う」はもちろんのこと、「バカって言うと、バカって言う」のも「嫌いって言うと、嫌いって言う」のネガティブに思えるフレーズも同調してほしい気持ちの表れなのだと思う。
なぜなら、「バカって言うと、バカじゃない」と反論されたら怖いから。「嫌いって言うと、嫌いじゃない」と言われたら困惑するからだ。
自分が嫌いでも相手も嫌いなら罪悪感はない。バカと言っても、相手にもバカと言われたならおあいこだ。

ポジティブな言葉だろうが、ネガティブな言葉だろうが、自分の言葉がオウム返しにされるとわかっていれば気楽だが、実際はそうではない。自分の投げかけた言葉に相手がどう返答するかは、わからない。
それが不安な人は、相手の顔色を伺って、言いたいことも言えずにいる。もしくは、「あそぼ」って言ってくれるのを待っている。
そして、「あそぼ」って言われたら、断れない。
予想外の返答に対する心構えもなければ、相手の期待を裏切る返答をする勇気もない。

自分がこのCMにまったく共感しないのは、「あそぼって言われても、(遊びたくなければ)あそばないって言う」人間だから。
「あそぼって言って、あそばない」って言われても、別に傷つかないし、「じゃあ、またね」って言う。
嫌いって言われたら、「じゃあこれっきり。」と縁を切るだけだ。

相手の期待に応えることが優しさだという勘違い。他人の顔色や空気を読んで、言いたいことを我慢するのが思いやりだという勘違い。それをやさしさだと勘違いすることで、自分の弱さを正当化している。そんな人が多い。
それは、優しさごっこをしているだけで、優しさとは違う。
相手の意思と自分の意思が同じでないことで傷付くのは弱さであって、優しさではない。
自分の言葉がこだまのように相手から返されることを期待している人は、相手の意思を無視している。
相手の言葉をオウム返しにする人は、自分の意思を無視している。

公共広告という名目のACが、この詩を取り上げるのは、現代にはびこるやさしさごっこと無縁ではないと思う。
オウム返しが優しさなら、「優しい」ロボットを作るのも簡単だ。人間の言葉をオウム返しにするプログラムを作れば良いのだから。
この詩に共感する人は、他人にロボットのようなリアクションを求める理由は何か、考えてみて欲しい。
posted by らいと at 22:11|